my favorite songs 002:隣

「隣」。
いつもかたわらに居る大切な人、あるいは近くて遠い謎の存在。
隣町、隣国、隣の星と離れた場所をあらわすのに使ったり、時間的な隣接をあらわしたりと、皆さんいろんな使い方をしています。

自作
南風つよい晩には隣からもれ聴こえくる atar a la rata[鼠捕り歌]

近所の子供たちから「お化け屋敷」とか言われてる古い洋館、昼間住人の姿を見ることはないけど、夜にはあかりが灯り、誰か住んでいることは確か。
夜中に時々妖しい音が聞こえてくる、というイメージです。
”atar a la rata”はアルゼンチンの作家『フリオ・コルタサル』の短編小説から。「鼠を罠にかける」という意味のスペイン語で、回文になっています。
いかがわしい感を出すためのパーツとして使ったけど、言われないとわかりませんねぇ。


皆さんの歌から、以下七首。

いつだって秋の隣にいるような少女の顔して待つよ海バス (ゆら)

駅から海に行くバスの通称として「海バス」と呼ばれているのでしょう。
そして『秋の隣にいるような』ちょっと愁いをたたえた少女のノスタルジックなイメージ。
昔と変わらない『海バス』のたたずまいに、懐かしい夏の終わりの思い出を愛しんでいるように見えます。


春隣ねむるあなたの睫毛からこぼれるものをやさしく舐める (紗都子)

恋人の悲しい夢を舐め取る。美しくもエロティックな映像、映画のようです。
眼でも瞼でもなく『睫毛から』こぼれる、というところに濾過された純粋な涙が表現されています。
『春隣』という言葉の選択も含め、終始幻想的。


あかるい釘と暗い釘とが隣り合うこの塀はたいへん真摯です (村上きわみ)

一見何の意匠もこらしていない平凡な塀、でもよく見ると・・・みたいな小さい発見から成り立っている歌。
もちろん塀を作った職人さんの業ですが、『塀は』とするとたちまち短歌となる。
そして『律儀』でも『几帳面』でもなく『真摯』。確かにここは『真摯』だなぁと思わせる語彙の選択力に脱帽。


凍てゆるむ夜風へ梅香揺らし居り冷たきひとの隣家にも春 (水風抱月)

普段は無愛想な隣家の人に対しておそらくあまりよい感情はいだいていない。
そんなある夜、かすかな隣家からの梅の香に、ふと普段の悪い印象も緩む。一瞬の気持ちの揺らぎを上手く捉えた一首。
季節感の描写も絶妙。


ウミネコがこわい隣にすり寄ってお前だったらよかったと啼く (ネコノカナエ)

ちょっと解釈が難しい、しかし何か妖しい魅力がある、そんな歌です。
「ネコノカナエ」というお名前からして、猫目線の歌、と読みました。
猫なので、ウミネコ語も解る。
絵本のように可愛らしいシーンかというと必ずしもそうでなく、己に満足していないウミネコの存在もありグロテスクでもある。
存外に深い。


手を振っている(さようなら)隣国に降った初雪ほどの淡さで (田中ましろ

旅立っていく人を見送る。送られる人はそっけなく手を振るが、自分は片恋の思いを隠してさりげなさを装っている。
『隣国に降った初雪』だけで、旅立つ人とはもう会えないかもしれないこと、初恋の旅立つ人への思い、その恋の儚さを表現しており、その修辞力に圧倒されました。


隣にはスズメ餌やりじいさんとスズメ餌食いチワワとあなた (じゃこ)

普通公園では鳩に餌をやります。『鳩餌やりじいさん』ではなく『スズメ餌やりじいさん』にしたことでファンタジー化されて、急速に世界が輝いてくる。
じいさん、スズメ、チワワ、あなた、となんだかわからない円環がぐるぐるまわって絵本の中に吸い込まれそうです。
そして『スズメ餌食いチワワ』がいとおしすぎる。